エッセイ

アイスコーヒーと麦茶

2014年ー1ー

アイスコーヒーの氷がカランと音を立てて溶けた。グラスは汗をかいている。

観光客がひしめき合う京都の四条大橋から離れ、暑さから逃げ込むように適当に入ったカフェにいた。狭くて居心地が悪い以外の特徴は見つからない。

すぐ潰れそうだな、と思いつつストローでアイスコーヒーを混ぜる。間を埋めるように口を開いた。

「平山くんの眉毛、綺麗やな。どうやって整えてるの?」

正面に座っている元恋人の眉毛を、まじまじと見ながら聞いた。

「ちょっと、そんなとこ見んといてや。恥ずかしいから」

ーー私は2年間にわたる世界放浪の末、大学時代を過ごした京都に帰ってきた。どうしても元恋人に確認したいことがあったのだ。

2012年

私と平山くんは別れて5年以上経つのに、付かず離れずの関係でいた。その間、恋人がいた時期もあったが、その隙を見計らったように、そして忘れかけた頃に、平山くんは連絡をしてくるのだ。

当てもない、目的もない、ただただ放浪したいという欲求だけで約5年半勤めた会社を退職した。

蝉の鳴き声が聞こえるなか、要らないものを処分し家を引き払う準備をしていた。そんなとき、ちょうど平山くんから電話があった。

案の定、平山くんのことは忘れかけていた。

何気ない世間話をしたあと、私は会社を辞めたこと、しばらく海外へ行くことを伝えた。

「へぇ、気ぃつけて行ってきてや。あんな、日本に帰ってきたらな神谷さんに言いたいことがあんねん」

「言いたいこと?え、なに?気になるから今言ってよ」

「いや、今は言われへん」

押し問答が続いた。

余計に気になるんですけど……と思いつつ、旅に出た。

いつものように平山くんのことを忘れるはずだった。しかし、平山くんの「言いたいことがあんねん」という言葉は、魚の小骨のように心のどこかに引っかかったまま2年の月日が流れていった。

2004年

田舎生まれの私は、いつもいる場所から出たいという欲求が人一倍強く、大学1回生の夏休みに1人でベトナムに行った。初めての海外旅行だった。

同じ大学だった平山くんと友達から恋人関係になったのも同じ夏だ。

私たちは空きコマや放課後に、学内のベンチでアイスコーヒーを飲みながら話をするのがお決まりだった。目立たない場所にひっそりあるベンチからは小さな日本庭園が見え、私たちはいつも「特別席」と呼んでいた。

アイスコーヒーがホットコーヒーに変わった頃、平山くんから一方的に振られる形で私たちは別れた。

私を振ったくせに平山くんは、連絡をしてくることがあった。もちろん時間とともに、その頻度は減っていったが。

2014年ー2ー

ーーしばらくの沈黙のあと、切り出した。

「それでさ、なんだったの?言いたいことって」

アイスコーヒーの氷はほぼ溶けていた。薄くなったそれをストローで飲みながら、平山くんが口を開くのを待った。

「……付き合ってたときさ、神谷さん浮気したやん?それなんで俺に言ったんかなと思うて」

アイスコーヒーを吹き出しそうになった。

「なにそれ!そんなことしてないよ。てか気になるなら早く言いなよ」

「いや、せっかく海外行くのにそんな話題するのもな、って遠慮してん。てか神谷さん、浮気したで。ベトナムで」

「ベトナムで?」

私は記憶を深く深く掘り起こす。確かに仲良くなった日本人の大学生と一緒に寝たことがあった気がする。

初めて海外にいるという現実は、私を浮かれさせるには十分過ぎた。

そして、帰国したあと興奮気味にたくさんの土産話をした記憶がある。”写ルンです”の写真とともに。

ただ、そのときはまだ友達関係だった。

「あぁ……、あれって付き合う前の話でしょ」

「いや、あん時はもう付き合うてたで」

どうも話がかみ合わない。付き合ってたら絶対そんなことしないし、したとしても恋人に伝えることなんてしない。

アイスコーヒーのグラスはとっくに空になっていた。話は平行線を辿ったまま、私たちはカフェを後にした。

「ほな、また。元気で」

平山くんはそう言って、アスファルトの照り返しが強い道を自転車に乗って颯爽と去って行った。その姿はすぐに見えなくなった。

それ以来、平山くんからの連絡はない。

2023年

現在、東京の1DKの狭い部屋で夫と暮らしている。

酷暑の日々が続く毎日。冷蔵庫でキンキンに冷やした麦茶をゴクゴク飲んでいた。

いつのまにか大好きだったコーヒーを飲めなくなっていた。飲むとなぜか、咳き込んでしまう。

近々、引っ越す予定だ。今、ようやく付けっぱなしだったエアコンを切り、部屋の換気をしながら片付けをしている。

額からは、大粒の汗がたれる。押入れを整理していると、埃をかぶった箱が出てきた。

「何だっけ」とベランダで埃を払い蓋を開けると、そのなかには過去の日記帳が何冊も入っていた。

私は一人旅するときに、日記を書く習慣がある。

ふと平山くんのことを思い出し、そういえば、と初めてベトナムへ行ったときの日記帳を開く。

最初のページには、こう書いてあった。

『昨日から平山くんと付き合い始めたけど、実感がない』

平山くんの言っていることは事実だった。ベトナムで私は浮気をしていたのだ。

過去の自分にあの言葉を投げかける。

「言いたいことがあんねん」

なんで浮気をしたのか。それをなんで平山くんに言ったのか。

いつまで経っても、平山くんは忘れかけた頃にその存在を思い出させる。

夫用のアイスコーヒーを久しぶりに飲んでみる。不思議と咳き込むことなく飲めた。

※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません

ABOUT ME
蘭ハチコ
スパイスのようなちょっぴり刺激的なモノ・コトが好きなフリーランス。世界60カ国以上を旅したバックパッカー。カレーを食べたり飲み歩いたりしています。 ◆歓迎分野:旅行/医療/グルメ/インタビュー/カルチャー全般 ◆資格:看護師免許/YMAA認証マーク資格試験合格/教員免許 ◆経歴:学習塾/営業職/看護師