1994年8月4日。
当時小学校4年生だった私は、おばさんに連れられて兄や幼馴染とプールに来ていた。
遊び始めて間もない12時を回ったころ、屋外プールに放送が流れ、おばさんが呼び出された。
戻ってきたおばさんが私たちに何と言ったかは覚えていないけど、「赤ちゃんが生まれたから今から病院に行くよ」とのことだった。
そう。私に妹か弟が出来たのだ。
平成初期、スマホはおろか携帯電話なんてものはなく、病院から仕事中の父親へ、父親からおじさんへ、おじさんからプールの事務所へ、そしておばさんに繋ぐというまるで伝言ゲームのようなリレー式のやりとりだった。もちろんすべて固定電話。
プールが大好きだった私。もっと泳ぎたかったなんて思うこともなく、急いで着替えて車に乗り込み、病院まで行ったことは覚えている。
しかし、その日のそれ以降の記憶はまったくない。初めてみた赤ちゃんに何を思ったのか、小学校4年生であれば覚えていそうな気もするが本当に思い出せない。
一週間の合宿
経営者である父親は、仕事人間である。当然、母親の産後の入院中に小学生二人の面倒を見れるはずもなく、幼馴染の家に兄妹で預けられた。
私にとっては、初めて母親と離れて暮らすという試練だったが、幸い8月という夏休み期間であったため毎日病院に会いに行くことができた。
幼馴染の家から一人でバスに乗り、10分もかからずにつく大きな総合病院。ちなみに私もここで生まれた。
生まれてから毎日、新生児室のブラインドが開く時間にガラスに貼りついて見ていたのははっきり覚えている。小柄な小学生の私が背伸びをしなくてもギリギリ見られる高さだった。
そして病室の母親とおしゃべりをし、バスに乗って帰るという毎日を繰り返していた。
はじめて妹に触れた日
「赤ちゃん抱っこしてみる?」
ある時突然、看護師さんに声を掛けられた。
毎日ガラスにへばりつく私を、看護師さんは毎日見ていたのだろう。
本来入れないはずの新生児室に入れてもらい、小学生が着るなんて想定していないブカブカのガウンを着せられて椅子に座った。
その私の腕の中に、看護師さんが生まれて数日の妹を乗せてくれたんだ。
映像は今でも覚えているけれど、何を思ったかはこれまた覚えていない。9年間も末っ子でいた自分に妹が出来たこと、初めて出会う赤ちゃんという存在に頭が追い付いていなかったのかもしれない。
歳の離れた姉妹
妹が赤ちゃんの間は、おむつを変えたり出来るお手伝いをそれなりにやっていたと思う。だけど、すぐに中学生になった私は部活に明け暮れて、この頃の妹との記憶はほとんどない。
アレルギーが酷くて病院通いばかりになってしまった妹に、中学生や高校生の私が何かできるはずもなく……。
そうしているうちに、私は専門学校入学にあたって地方に引越した。
東京で生まれ育った私の初めての田舎&一人暮らし。
家族と離れて暮らす日々
半年ほど経過した寮生活1年目の誕生日、荷物が届く。
中身は母親が作ったケーキと当時10歳の妹からの手紙、そしてチップとデールのマグカップ。このマグカップは、母親がお金を出したものではなく、妹が通っている英語教室でシールを貯めて交換したものらしい。
小学生なんて、自分が欲しいものもたくさんあるだろうに、離れたお姉ちゃんへの誕生日プレゼントのために頑張るなんて……泣ける。ちなみに手紙は今でも保管してある。何でも捨てたがりの私が捨てられないもののひとつだ。
大変だった妹の青春時代
一度は落ち着いたように見えた妹の身体は、小学校高学年から再び芳しく無い状況になり、運動が一切できないほどだった。体育はすべて見学、好きだったダンス教室も諦めることに。
中学高校は欠席が多くなり、元気100倍だった私の青春時代とはかなり違ったと思う。
きっと辛かったと思う。でもそんな姿は私には見せなかったから凄い。私だったらイライラで暴れまくっていただろう。
妹は幼いころ、上2人が思春期で大変なのを見てきたから、自分を抑えるようになっていたのかもしれない。
とにかく、私の印象としての妹のこれまでの人生は「大変」だった。
2023年8月4日。
今年一番の最強開運日。
相変わらずめちゃめちゃ暑い日。
妹が結婚した。
出会ってから半年ぐらいのスピード結婚。
びっくりし過ぎて未だに実感はない。
嬉しいとかおめでとうとか寂しいとかそんな感覚もまだない。
だけどこれだけははっきりとわかっている。
あなたの幸せはこれからだ。
人生の初めの方で大変だった分、これからは幸せしかないはず。